2014/03/10

「3.10」

3月10日はチベット人にとってとても大切な日である。
55年前のこの日ダライラマ法王を中国から守るためにラサ、ノルブリンカに数万人のチベットが集まった。これが「1959年チベット蜂起」のきっかけである。中国軍はこの群衆に攻撃し、数週間で数万人が命を落とした。そしてダライラマ法王の一行はインドへと亡命した。
ロサが新年を祝う日であるのに対し、この日は政治的な意味合いでチベット人の鼻息が、一年で一番荒くなる日なのだ。もちろん連れの鼻息も荒くなっている。
3月10日は世界中のチベット人、チベットサポーターが街に出て「FREE TIBET!」と声をあげる。日本では3月9日の日曜日にデモが行われた。人の集まり易い日曜日にといった配慮だろう。僕と妻ももちろん出かけた。
日曜日の渋谷にチベットの国旗がはためく。集合場所の公園に集まったのはざっとみて50人くらいか。ちらほら見覚えのある顔もあるがチベット人はやや少なめ。彼女は明らかにそのことに対し不満そうである。チベット人を中心にみなでお祈りを捧げ、国歌を歌う。

そう言えば彼女はインドに亡命するまで、チベットの国旗も国歌も知らなかった。それどころか自分がチベット人であるということを知らなかった。知る機会がなかった。ネパールとの国境に近い町のホテルで働いているときにインドから帰ってきた一人のチベット人男性を助けたことがあるという。彼は山越えの途中で、おそらく国境警備隊に銃撃され足に怪我をしていた。彼をホテルに匿い手当をしていた彼女は、その男性から自分たちのこと、つまりは自分たちはチベット人であるということ、そしてインドに自分たちの大事なラマがいるということを初めて聞いたという。そして彼が隠し持っていたダライラマ法王の写真を受け取った。それがインドに行こうと思った最初のきっかけだ。

そんな彼女が今日はデモの先頭で横断幕を持って、国旗を持って歩こうとしている。何人かの人たちが大丈夫かと彼女に声をかける。先頭にいれば当然写真にも写る。なにがしかのメディアに出るかもしれない。ましてやマスクもサングラスも持ってない。チベットに家族が残る人は表に出るわけにはいかないだろう。そうじゃなくても今後チベットに行くときになにか問題になるかもしれない。でも彼女は言う。
「大丈夫、大丈夫。私にはなんにもない。」
手ぶら無鉄砲娘の面目躍如。
僕は後ろで内心ヒヤヒヤしていたが、まあ言い出したら聞かないので黙って見守ることにする。
そうしてデモはスタートする。

歩きながら、大きな声をあげながら、去年はダラムサラでたくさんの人たちと一緒に歩いていたんだなと思った。この先こういうチベットの行事のたびに一年前のダラムサラを思い出すんだろうな、そう思った。一年前、僕は気のいいノッポのクンガと歩いていた。器用なクンガはみんなの顔にチベット国旗をペイントし、自分は大きな背中に大きな国旗を背負っていた。その横で僕は意味の全く分からないチベット語のコールをなんとか繰り返していた。朝は今にも降り出しそうな空だったが、途中から日差しも強くなり、僕はたくさん汗をかいていた。拡声器に挟まれ、幼い尼さんたちと大きな声をあげていた。
そして今東京。街頭の人たちはぽかんとしている。買い物袋を抱えてぽかんとしている。日曜の渋谷にあらわれたどうしても拭えない異物感。ニューヨークはどうなんだろう。パリはどうなんだろう。もっと違うリアクションがあるのではないだろうか。日本ではあまりにも知られていない話なんだな、そう思わざるをえなかった。もっとも僕もダラムサラに行く前はどうだったと言われると似たようなものだったかもしれない。でも今はずいぶん違うことになっている。遠い話ではなくなってしまっている。思えばそれも妙な巡り合わせなんだけど。
一時間ほどかけて渋谷、表参道と周った。そういえば日本についてすぐに彼女を連れてこの辺を歩いた。今日道路から見た街はどんな風に見えたんだろうか。

デモが終わり、場所を変えて簡単な懇親会のようなものがあった。日本人と在日チベット人がお互いに交流しようという会。日本に来て15年という人がこんな話をしていた。「日本に来たばかりの頃、ちいさな町工場で働いていた。僕はどの人が社長か分からなかった。聞いてみたら横で作業しているおじいちゃんが社長だった。その人の指は機械にやられて全然なかった。社長なのに、おじいちゃんなのにこんなに働いていることが驚きだった。日本は実際は小さな国だけど、こういう人たちが日本を大きな国にしたんだと思った。チベット人はもっと頑張らないと。」
やはり日本で働くということは彼らにとって思ったよりハードなことなんだろう。ここはチベットでもなければネパールでもインドでもない。いいことか悪いことかはわからないが日本はよく働く国なのだ。
日曜日だというのに参加者にチベット人が少ないと、一人の先輩チベット人に妻は不満を漏らしていた。彼はこう言う。「あなたもしばらくここに住んだら分かる。そんな簡単な話じゃないんだよ。」
いろんな意味合いが含まれていそうなその言葉。


彼女のジャパニーズライフは始まったばかりだ。



2014/03/02

あたらしい年

今年3月2日はチベット歴の新年「ロサ」である。
チベット人はこの日の二日前から準備を始める。日本で言えば年越し蕎麦のような意味合いでトゥクパを作り、部屋の掃除をし、仏壇の飾り付けをする。飾り付けも簡単なものではない。いろんな形のカプセ(小麦粉、牛乳、バターなどで作る揚げ菓子のようなもの)を作り並べたて、ダライラマ法王の写真や仏教画の周りを飾り付ける。他にもツァンパやお祝い用のご飯、お菓子、ジュース、果物、カタなどなど用意しなければいけないものはたくさんある。「ロサ マレ、レサ レ」。チベット人は冗談でそう言うらしい。「『ロサ』じゃないよ、ほとんど仕事だよ」という意味。二日前に作るトゥクパの中にはおみくじのような紙を混ぜ込み、食べた人の新しい年を占うらしい。そうやって一生懸命準備をし、新しいきれいな服を用意し、新しい年を迎える。本来ならば新年は15日間お休みして祝い続けるという。15日間ってそんなに悠長に新年を祝ってるのはチベット人ぐらいなものだ。ただ最近はダラムサラでは、チベット本土で続く焼身自殺などの状況を考え、2008年以降自粛ムードにあったようだが、今年はチベット人の伝統を若い世代に引き継ぐために、騒ぎすぎない程度にということで、ロサ解禁のお達しがあったようだ。もっとも僕はいなかったのでいままでのことは知らないし、みんながホントに自粛できていたかどうかはクエスチョンマークである。ちなみに妻は数年前のロサに3人で10キロの肉を食べて3人そろっておなかを壊したと言っていた。

そんなロサを彼女は日本で迎えることになった。ダラムサラやカトマンズの友達から送られてくる大晦日の様子を見るまで、彼女は今日がその日だと言うことを忘れていたりするのだが、いざロサモードに切り替わると急にソワソワし始める、というより興奮し始める。チベット娘の心の中の爆竹はいつでも点火待ちなのだ。どんどん出てくる故郷ラサでの家族とのロサの思い出。ビール片手に、彼女は真夜中ずいぶん遅くまで僕に話してきかせてくれた。

そして3月2日。僕らは在日チベット人たちによるロサのパーティーに行った。
その日の東京は冷たい雨。しかしチベット人にとってこういう日の雨は祝福の雨。神様がお祝いの花を降らせてくれているのだ。ただそれが僕たち凡人には雨にしか見えないだけ、彼らはそう言う。思えばダラムサラでもダライラマ法王のティーチングのある日は決まって雨が降っていたような気がする。それもどしゃ降り。それでティーチングが終わる時間になるとすっかり上がっていたりした。祝福の雨、うん、なんか悪くない。
会場である川崎のお寺の小さなホールに到着する。受付ではきれいなチュパを身にまといしっかりメイクアップした若い子が僕らを案内してくれた。東京に来て一週間、初めてチベット人に会ったということになる。彼女も持ってきたチュパに着替える。会場に入っていく彼女の背中に向かって、負けんじゃねえぞニューカマーよ、つぶやいてみたりして。

亡命チベット人社会から日本にやってきているチベット人は100人程だという。アメリカ5000人、スイス3000人などの数字をみると圧倒的に日本は少ない。もっとも難民として認められていない日本にわざわざ来るメリットはチベット人にとってまったくといっていいほどない。少ないのも当然だ。チベット本土から留学生として中国パスポートで来てる人たちはもっといるようだが、その人たちと、亡命チベット人が出会う機会はほとんどないそうだ。日本にいたって中国大使館の目がどこにあるかはわからない。本土の人が亡命した人と接触するというのはそれぐらい危険なことなのだ。逆に言えばそれだけ中国政府が恐れているという言い方も出来るかもしれない。そう言えば前回日本に帰ってきたときに本土のチベット人映画監督の上映会に行ったが、彼はとてもとても慎重に言葉を選んで自分の映画について語っていた。日本にいると考えもつかない息苦しさが、隣の国には存在している。

いつの間にか彼女はチベット人の女の子たち(?)の輪に加わっていた。聞いてみるとみな日本語も出来るし、それぞれ仕事もしているようだ。彼女がほんの1週間前に日本に来たことを知ると、いろいろアドバイスをくれた。いわく日本語が出来ないうちはなかなか大変だよ、他の国とちょっと違うよ日本は。でも日本語がちょっとでも出来るようになるとけっこう心地よいよ。日本人みんないい人だし、とまで言っていたかどうかは記憶が定かではないが、みんな自分が苦労してきた分、新しい仲間に親身になってくれる。たまにみんなであつまって遊ぶからいっしょにおいでよ、カラオケでも行こうよ。まあカラオケのことを話してたかどうかも分からないけどそんな感じだ。同世代の女子が集まっている感じ。日本に来ても特に食べ物に関しても不自由なさそうだし、僕の家族たちとも楽しくやってけそうだったのであまり心配はしてなかったけど、やはり自分の国の言葉で気安く話し合えるというのは大事なことなのだ。さっそく電話番号の交換をしている。こうやってすこしづつ異国の中に自分の場所を作っていけたら、いつの間にか異国の風景も違って見えるんだろうなと、僕はやや他人事みたいに女子たちを遠巻きに眺めていた。


さてさてロサのパーティーである。始まりにみなでお祈りをしたりはしたが、基本的にはいつものチベット人の宴会スタイル。ご飯を食べ、酒を飲み、あとは歌って踊って、カードやサイコロなど気ままにダラダラと。チベットやインドのヒットソングが大きなスピーカーから流れる。自然にできる人の輪。僕にしきりに一緒に輪に入って踊ろうと彼女は言う。僕は断る。「行ってみんなといっしょに踊ってきなって」僕としては踊ったっていっこうに構わないのだが、踊ったら踊ったで踊りがかっこわるいとか文句を言われるのがオチなので踊らないことにする。「行ってきな、行ってきな」「えーちょっと1人じゃー」「いいからいいから」「いやでもー」そんなこといいながら彼女の体は勝手に動き出している。イッツオートマティック。ポンと背中を一押しするだけで、あっというまに輪の中に溶け込んでいく。あっというまに見えなくなってしまう。



2014/02/22

「アウトカントリー」というやつ

妻は、一月に子供と二人で夫の待つフランスへと旅立ったお姉さんとたまに連絡を取っている。
亡命してきた難民としてフランス政府に受け入れられているのでなかなか手厚いサポートがあるようだ。家が用意され、毎月の補助金があり、毎日食料の配布もある。野菜、果物、缶詰類、バケットなどを両手いっぱい抱えている写真を見ると、はっきりいってうらやましい。いつまでかはっきりとは分からなかったけど、しばらくは補助をうけられるようだ。
夫はすでにチャイニーズレストランで働いているし、お姉さんももうすぐ働き始めることが出来るらしい。何年か二人でガッツリ働く。学校に行く年齢になったら子供はチベットの親戚のところへ預け、向こうの学校に行かせる。十分稼いでチベットに戻り家族みんなで暮らそう、それが今の彼らのプランだ。
フランス語も英語もろくに話せない彼らの仕事がチャイニーズレストランになるのは妥当なところなんだろう。そしてやっぱりフランスに根を生やすという考えはないようだ。自分で選んで亡命してきたのだけれど、やっぱりチベットに帰りたい。亡命したときは彼らが何を求めて出てきたかは僕には分からない。いつ亡命してきたかによって向こうの様子がだいぶ違うので状況は人それぞれだ。
ただ言えるのはインドにいることに未来を感じることは出来ない、そういうことだ。
やはりお金の問題である。信仰だけではお金は降ってこない。神様はおなかまでは満たしてくれない。

ダラムサラでiPhone持って、Mac持ってという人はだいたい海外の親戚などから送金のある人だ。そんな人たちは仕事もしないでぶらぶらしてられる。朝から晩まで働いてる人たちは、そういう人がいない人。iPhoneなんて夢のまた夢。インドのサラリーなんて部屋代払って電気代払ってもうおしまい。妻がよくそんなことを言う。だからみんな外国に行きたがる。
みなスマートフォンで毎日通貨レートをチェックし、韓国ウォンが上がった下がった、シンガポールはどうだ、マレーシアはどうだと一喜一憂してる。どこの国に行って働くか、どこの国で働くのが割がいいか、そんなことを考えている。通貨レートだけじゃなくてその国の物価とかいろいろ他の要素もたくさんあるだろうにとも思うのだが、みな夢を見ている。

2000年頃まではお坊さんや尼さんは比較的容易に外国へ行けたらしい。チベットから亡命してくる人たちも多かったその頃、ヨーロッパを始め諸外国の支援が厚かったということだ。それでたくさんの人が外国へ行った。外国に行きたいがためにお寺に入った人もたくさんいたという。その後亡命政府の意向もあったのかインドから出国する審査というのが厳しくなったらしい。
政府、NGO、支援団体、個人のスポンサーなどの正式な招待のもとに外国にいくのが1つの方法。これは抽選や審査があったり、たくさんの枠があるわけではないので競争率はかなり高い。2つめが先に行った配偶者や親戚に呼び寄せてもらう方法。それもだめなら残っているのはイリーガルな方法。ブローカーのような人がいる。どうやってその国まで行くのかと思うが、いろんな方法があるんだろう。山を越えたり、海を渡ったり、偽造パスポートを使ったりというところか。目的の国の国境まで来てしまえば、パスポートなんかは全部捨てて、亡命してきました!と両手を上げる。ブローカーにはかなりの大金を払う必要がある。インド、チベット、海外の友人親戚からかき集めてようやくお金を作る。向こうについて働き始めればお金は返すことが出来る。ただ成功するかどうかは運次第。実際以前レストランで一緒に働いていた友人はヨーロッパを目指したが、途中イラクかどこかで捕まり、強制送還となった。道中自分が今どこにいるかよくわかってなかったという彼は、数ヶ月後にすっかりやつれ、髪もひげももじゃもじゃになって帰ってきたという。
彼はその後もオーストラリアの抽選に応募し続けているが、いっこうに受からない。彼の隣に住んでいる人が受かった。隣人はもうすぐオーストラリア、友人はまだダラムサラ。
もう一人別の友人も、いろんなところにいろんな方法で外国に行くためにトライしているが、いっこうに書類が通らない。この間会ったとき、もう疲れたとこぼしていた。インドに来て10年、先の見えない不安。こんなことならチベットに戻ろうかな、チベットに戻ってレストランを開こう。彼はそう言う。故郷に戻って家族の近くで暮らし、ツァンパを食べてた方がよっぽど幸せなんじゃないか。最近お母さんからしょっちゅう電話が来るんだ、ご飯ちゃんと食べてるか、ブランケットは暖かいのがあるかって。いつもおんなじことを言うお母さん。もう年取ったお母さんに心配かけさせてるのもよくないよな。小さな口をさらにつぼめて、彼はそうこぼす。

実際チベットに戻る人も多い。政治的なことに口を閉じてさえいれば、仏教のことは心の中にしまってさえいればいいんだ、そうすれば今よりは楽な暮らしが出来る、彼らはそう言う。それじゃあ経済的な幸せが人々の幸せだと信じて疑わない中国政府の思うつぼなんじゃないのか、と僕は思う。町中に武装した警官が立って監視されていたって暮らしがよければ我慢できる?ダライラマ法王の写真の代わりに毛沢東の写真を飾れと言われて我慢できる?と僕は思う。だけれど僕に口を挟む資格は全くない。いっこうに状況の変わらないチベット問題にいらだつ彼らの気持ちを、僕は完璧には共有することは残念ながら出来ない。

それぞれの逡巡と決断。

ところで僕たちは日本で暮らすことにした。
外国人にとって、きっととっても暮らしにくいであろう日本で暮らすことにした。この先どうなるか、自分と彼女の分ニ倍よくわからないことになっている。
日本政府はチベットという国の存在を認めていないので、彼女は無国籍ということになる。
無国籍と宿無し職無し。ないないづくしの僕たちである。

はてさてこの先どうなることやら。乞うご期待。いや危なっかしくてしょうがないな、実際。