2016/02/13

雪の国の子供達



先日上野アメ横に行った。あの辛い麺を食べないと死んでしまうという奥さんの強い希望で、いつも行く中国人のやっている屋台のようなところにまっしぐらである。いつのまにかアメ横は外国のようになっており(といってもケバブ屋と中国人屋台がほとんどなのだが)、気軽に旅行気分を味わうのにはもってこいである。休日でだいぶ混み合っている。

そしてアジアの食材屋がいろいろ入っている建物へというのがいつものコースである。僕はタイ食材屋でフレッシュハーブを買い、インドの店でスパイスを物色するのがお決まりであり、奥さんは中国人の店で火鍋の素やらなんやらかんやら漢字のいっぱい書いてある赤くて辛そうなものをいろいろ買う。
その店で彼女が「これ懐かしいー」と大きな声を上げた。手には 白いウサギの書かれた包み紙の飴の袋。なかなかかわいいデザインである。会計を済ませるやいなや、彼女は袋をかじり開け、飴玉を口に放り込む。そしてうっとりとした顔をし、もう一つを僕の口に乱暴に放り込む。ミルクキャンディである。ほのかな甘みの素朴な昔懐かしというような味である。まあ可もなく不可もなくである。そういう感想をそのまま彼女に伝えると、「あなたにはそうかもしれないけど、初めて食べた時はびっくりしたんだよ、こんなにおいしいものがあるのかって。私はいつもこれが食べたくて食べたくてしょうがなかったんだ」と彼女は言う。
チベット、ラサでの彼女の記憶。舌の記憶は鮮烈である。

最近現代チベット人作家の小説を読んだ。「雪を待つ」とういう本。おそらく僕と同世代の作者である。物語は主人公「ぼく」の子供時代である1980年代と、大人になってからの2000年代が行ったり来たりしながら語られる。時代的にはチベットの山村の伝統的な暮らしが変化し始める「ぼく」の子供時代があり、大人になり現代的な都会暮らしをしている「ぼく」がいる。幾つものエピソードを絡ませ反復させグイグイと読ませるストーリーテリングの巧みさに脱帽したのであるが、一つ一つのエピソードの、特に子供時代のそれの鮮やかかさ、瑞々しさに心を揺さぶられた。そこには僕がまだ見たことのないチベット、僕が夜な夜な思い描いていたチベットがあった。
そこでたびたび登場するのが「ミルク飴」である。子供たちにとって特別なもの。街にいったお父さんがお土産にくれる一個のミルク飴。「あのことはお母さんには内緒よ」とお姉さんに渡される、お願いごとの対価としての一個のミルク飴。子供たちはいつもミルク飴に心踊るのである。
なるほど、このことか!と僕は膝を打つ。奥さんが大事に食べている白いウサギのミルク飴を、僕も一ついただき、じっくりと味わうことにする。そう思って食べるとこの素朴さがスペシャルに感じるのは気のせいか。

いったい彼女はどんな子供時代を過ごしたのだろうか。一番身近な人でありながら、いまだにイメージしきることができない。やはり僕がその土地、チベットを知らないからだろうか。彼女の口から聞く思い出話はかなりワイルドで荒々しいものだ。兵隊の倉庫のようなところに忍び込んで食料を食べ散らかしたり、家の大八車のようなものに子供達で乗り込んで走り回り、自動車と衝突事故を起こしたりしている。年上の兄弟友達ばかりで、彼女を置いていつも先に逃げてしまい、最後は決まって一人、大人に取り囲まれ泣いていたそうだ。お母さんと喧嘩をし、家出をしたことがあったと聞いた。たぶん6歳ぐらいだったと思うと。あてもなく家を飛び出し、数日乞食の子供たちと一緒に毛布にくるまって寝たという。そのうち中国人の娼婦のお姉さんたちにうちにおいでと言われ、そこで厄介になっていたらしい。彼女は小さいときから中国語が上手だったという。娼婦たちが共同で暮らす家に転がり込みいろいろ面倒を見てもらい、楽しくやっていたそうだ。夜はみんな仕事に出かけるのだろうから、化粧の匂いの残る部屋で一人、ミルク飴を存分に舐めながらテレビでも見ていたのだろうか。僕はこんな奔放な子供時代を送ってきた人を他に知らない。

そんな彼女が、常識も価値観もまるで違うであろうところで生まれ育った彼女が、今ベランダで洗濯物を干している。その後ろ姿を見ながら僕はビールを飲んでいる。この言いようのない不思議な感覚が今日のビールの「あて」である。

2015/12/24

辺境のメリークリスマス

クリスマスである。

街はいつもの通りに大盛り上がりである。
殺風景な自分の店の中を眺め、これではいかんのではないかと思い、軽く飾りつけなどをしてみる。
インド、ダラムサラの亡命チベット人の学校TCVの子供たちが描いた絵をつなげたルンタのようなものがある。なぜか僕の手元にある。それを天井に飾ってみる。
カラフルで一見楽しそうに見えるが、一つ一つをよく見てみると楽しい絵ばかりではない。そんなことわかりきったことではあるのだが。おそらくヒマラヤを越えているだろう列をなす人々、おそらくお坊さんが捕らえられている様子、誰の顔なのか真っ黒に塗りつぶされた女の人の顔。
ドアを開けて表へ出るとマライアキャリーのクリスマスソング。サンタの帽子をかぶっている売り子の女の子。すべてが現実。なにより僕のごくごく身近な人もこの絵を描いた子供達と少なからず同じ光景を見ているはずだ。
クリスマス的な飾り付けという予定とだいぶずれている気もするが、しょうがない、そういうことだ。なにもかにもすべてひっくるめて、丸めてごくんと飲み込んで、今日も酔っ払いたいと思うのだ。


さてさて、店を始めてもう4ヶ月が過ぎた。4ヶ月も経つけど、なんだかいまだに心がざわついている。一つの場所を構えて仕事をするというのが久しぶりだからかなんなのか、ざわざわする。

例えばある深夜2時。
僕はカウンターに座り、余り物の簡単なつまみを用意し、自分のためにワインを開ける。
店の中から外の様子をうかがうことはできない。
この瞬間世界とのつながりはラジオだけである。深夜のAMラジオ。その頼みの綱であるラジオでは鼻づまり声の女が「どんぐりと山猫」を朗読している。
そんな時ふと思うのだ。
この瞬間も世界はドドドと音を立ててを変化し続けている。こんなところでぼやぼやワインなど飲んでいていいのだろうか。深夜2時の自問自答。
外の様子は相変わらずわからない。夜遅くに雨になるってラジオで言ってたけどどうなんだろうか。
いまこの瞬間、僕がワインを飲みながら「どんぐりと山猫」を聴いているこの瞬間に、世界のどこかでは叱られている子供もいれば、飛行機を操縦している人もいる。歯医者で歯を抜かれている人もいれば、海辺で昼寝してる人だっている。あくびをしている熊もいれば、爆撃の下で逃げ回っている人もいるはずだ。
ざわざわざわざわ。
若い頃、始めて大きなリュックを背負って旅に出た。どこにでもいけるという高揚感で僕はいっぱいだった。街から街へ。気ままに電車を乗り継ぎ深夜バスに乗り込む。はじめて目の前に広がる広さを満喫していた。と同時に僕は気付いてしまった。10時間バスに揺られながら窓の外を通りすぎる、小さな村々、10時間分の通り過ぎて行く人々、僕はこの先彼らに会うことはないのだろうということを。電車の中から見た、早朝線路にケツをむけて一列に並んで用を足す彼らと話すことはないのだろうということを。世界は広すぎる。あまりに広すぎてとてもじゃないが僕一人の手に負えるものではない。

毎日下北沢の2階10坪の店で料理を作りながら感じるざわざわはその時の感じに近い。膨張し続けるアタマ、限りあるカラダ。


そんなこんなで、ざわざわしながら下北沢で飲み屋をやってる僕の新しいメニュー「辺境のチキングリル」。誰かにとっての辺境も、別の誰かにとってはまぎれもない中心であるはず。僕らはここにもいるしあそこにもいるのだ。文学や音楽という表現の形態が、受け手である個人を無限に拡大させる力を持っているのなら、料理にだって、飲み屋にだってできないことはないと僕は思っている。

ちなみにこのチキンにもクリスマス感は微塵もないです。

2015/09/16

はたしてビールびんの中にホーキ星ははいっていたか?

新しいお店を始めた。「ホーキ星」という店。東京下北沢である。

店を作ったのは2度目となる。以前は国分寺で「トネリコ」という店をやっていた。最初の店を始めたのはもう10年ほど前の話になるのか。

なんでも初めてのことは、いちいちエキサイティングな出来事である。物件を探し、業者を探し、内装を考える。ペンキを塗って、備品を買い揃え、メニューを作る。見たこともない大金をあちらからこちらへ。そんな初めてだらけの日々を楽しんでいた。当時のことを書いたものを読み返すと、なんとも言えない心持ちになってしまうのはいろいろな事情が絡まり合っているからかもしれないが、ともかくフレッシュな感じがする。いってしまえばなかなか気恥ずかしい。

そしてやはり2度目は2度目だ。僕は気付かぬうちに大人になっている。自覚はないが過ぎた時間はそのまま経験として積み重なっているようなのだ。10年前、初日は6時オープンの予定が8時になった。時間どおり来てくれた数人のお客さんを帰した。開けたはいいが、ぽつぽつ入った料理のオーダーを眺め、何をしていいかわからず、ただただしゃがんで冷蔵庫を開け閉めしていた。ほんの数時間の営業で疲れ果て、片付けも出来ず、記念すべき最初のおつかれビールの乾杯もせず、お客さんが帰ると同時にそのまま店で寝てしまった。そんな僕はもういない。こんな仕事するんじゃなかったと初日に心底後悔した僕はもういない。
ということで、実にさらっと、落ち着いた顔をして始まったというのがひと月ほど経った僕の印象である。まあお客さんが見てどう思っているかは別の話なのだが。

店の外には「ワインと料理 ホーキ星」という看板がある。それ以外は特にない。2階なので中を覗き込むこともほとんどできない。知らない人には情報は少なすぎるという気がする。しかし残念ながら、僕は店をわかりやすく説明する言葉を持ち合わせていない。どんな料理?と聞かれてもうまく答えることができない。だいたいふりかえってもフランス料理屋で修行していたとか、イタリアに渡り勉強してきたとかそういうわかりやすさが全くない。なんといってもちょっと前までインドでかき揚げ丼を作っていたのだ、チベット人と。わかりづらすぎる。
「バー」とか「レストラン」とかその手の言葉がいろいろあるが、そういうのはあまりすきではないし、勝手に分類もされたくないし、決めたくもない。われながら面倒くさい。

「わかりやすさ」を躊躇するのはなんでだろう。ある種の「わかりやすさ」は、お客さんにとってはとっつきやすいし、よけいな説明も勘ぐりも疑心暗鬼も必要ないわけだし、大切なことではあるというのは理解出来る。しかし、そのとっつきやすさはその分消費されるのも簡単なんではないかということを僕は本能的に思うのである。僕は今の高度消費社会を、簡単に言ってしまえばお客さんを恐れているのだ。新しい店を始めたばかりでそんなあけっぴろげなことを公にいってしまうのもどうかと思うが、本当なんだからしょうがない。これだけ簡単に情報が流れてどっかに通り過ぎていく社会に違和感を感じているとでもいえば理屈が通るか。店とお客がお互いに勘ぐり、疑心暗鬼の時間を経て、手探りで一歩づつ近づいていく、そういうアナログなコミュニケーションの仕方こそが、濃密な時間の流れるいい店を作っていくんではないかと思うのだ。今までもそうやってやってきたし、これからもそうやっていく。これは、2度目の店ではあるが、まだまだ青臭いままでやっていくぜという、一つの決意表明である。大げさで面倒くさいことこの上ない話であるが。


「ホーキ星」というのは稲垣足穂の文章の中から拝借した。彼の文章のファンであるのはもちろんだが、稲垣足穂自身の持つ「得体のしれなさ」に魅せられ、その「得体のしれなさ」にあやかりたいと思っている。そしてなにより「ホーキ星」とは「彗星」のことである。地球上のあらゆるボーダーをあっさりと飛び越えまたどこかむこうへいってしまう軽やかさ。そういう店にしたいと思っている。やや強引ではあるが、これで納得していただけたら幸いだ。


というわけで、みなさま末長くどうぞよろしくお願いします。
こう見えて僕は結構おしゃべりです(酒が入れば)。



ちなみに1年以上放置したままだったこのブログ。インド・ダラムサラから日本へ来るまでの、チベットにまつわるあれこれを書いてきましたが、第2章は下北沢のカウンターの中からの定点観測ということでぼちぼち書いていきたいと思ってます。こちらもどうぞおたのしみに。

2014/05/13

ぶん投げる

日本に来てはや2ヶ月が過ぎた。妻も少しづつ僕の友達やらなんやら、いろんな人と出会う機会が増えてきた。彼女の順応能力の高さに驚く日々である。

先日京都でチベット料理をみんなで作って、みんなでチベットのことを話そうという小さなワークショップを開いた。町屋の小さな会場でのかなりアットホームな会。先生としてみんなにモモの包み方なんかを彼女は教えていたわけだが、かなりのカタコト日本語でどうにかなるもんだと、ちょっと離れたところで感心していた。

コミニュケーションということについて最近よく考える。彼女はたくさんの言語を話せるわけだから、言語の能力に長けているということにとくに疑問を挟む余地はない。ただ最近あらためて気づいたことはコミュニケーションということにおいて、言葉とは違う問題なんだなということだ。なんだか書いていてコミニュケーションという言葉が鼻に付いてきた。今の日本の文脈でよく使われる「コミニュケーション能力」という言葉、略して「コミュ力」なんて言葉に、なんとも言えないいらだちを感じるのはなんでだろうか。
相手を知ろうと言う欲求と、自分のことを伝えたいという欲求、テクニックなんかではなく、ただその欲求さえあればいいのだというごくごく単純なこと。言葉は一つの手段にすぎない。外国にいるとそんなことは当然のように感じることが出来る。いや、それはただ言葉の出来ない自分への言い訳のための論法であったか。まあ言い訳でもなんでも、笑われようがなんだろうが、伝えないことにはおなかをいっぱいにすることすら出来ないのだからしょうがない。インドでの1年はあの手この手で通じ合う努力をした1年間であった。愛想のない酒屋、どうしても聞き取れない変な英語の切符売り場のオッちゃん、ケツをたたかなくては働かないレストランの同僚達。もちろん妻となった彼女とだっておんなじことである。いまだってよくやってるなと思う。お互いの不完全な英語(あんたと一緒にするなと彼女は言うに違いないが)、初級クラスの僕のチベット語、そして彼女のカタコトニホンゴ。あとは熱意だけである。こうやって並べてみたら、なんかそんだけありゃ充分じゃないかという気もしてくるが、はっきり言ってギリギリである。でもどうにかなっている。
京都での会を企画してくれた古くからの友人は、久しぶりに僕に会ってずいぶん変わったと言った。昔に比べ、「開かれた」とその友人は言う。昔はそんなじゃなかったよと言う。その人は特別に自分を開きっぱなし垂れ流しというところがある人なので、自分と比べちゃいけないよという言葉も出かかったし、そんなこと簡単に認めるのも恥ずかしい気もするのだが、よく考えてみるともしかしたらその指摘は正しいのかもしれないなと思う。

もともと言葉で伝えることに大きな重きを置いて暮らしていたほうだと思うし、そのぶん自分の口から吐き出す言葉には何度も自分で検閲をかけていたほうである。なので言葉の瞬発力はまったくないのだけど、言葉の力を信じている、そういう部類の考え方をしていた。お互いに言葉を積み重ねることこそが理解し合う正しい道である、そういうこと。もっともその考えは大雑把にいうと今も変わらないと思うのだが。ただ振り返って、言葉の力を信じるあまり、その理解を相手にゆだねる部分も多かったのではないか、そんなことを考えた。言葉は自分を伝える媒介でしかないとしたら、媒介が間に入れば入るだけ、伝えるということにおいて考えると、誤差が出ることもあるということだ。自分の心をそのまま直接相手にぶん投げたほうが伝わるに決まってる。
僕はダラムサラの一年でぶん投げる人に成長したということなのだろうか。いや、やっぱりそんなこと簡単に認めたくない。難しいところだ。ただはっきり言えるのは街を歩きながら僕らが笑うと、けっこうな確率で誰かは振り返るということ。つられて僕の笑い声まででかくなったのは間違いなさそうだ。

これからチベット人の女の子と結婚するという人にもあった。日本人の女の人とチベット人男子と言う組み合わせはまあいるのだが、逆のパターンに会ったことはないというのはお互いにそうだったので、なかなか話し合うべきことがたくさんある出会いであった。彼はチベットにも長く行っていたようだし、チベット語も堪能なようで僕なんかと一緒にするべきではないのだけれど、それでも話し合うべきことはたくさんある。相手の子はチベット本土に住む遊牧民で、写真を見せてもらったが、いったいどこで見つけたのかと言いたくなるようなカワイコちゃんであった(実際声に出したかもしれないが)。今後は向こうで一緒に住むと言う。彼は彼女と知り合って自分もピュアになったような気がするというようなことを言っていた。うーん分かるような気がする、いやちょっと僕の場合は違うような気もする。ラサの子と遊牧民の子の違いか。ピュアと言えばピュアだけど、その言葉のイメージをこえたダイレクトな凶暴性を秘めているなんてことは妻の横じゃもちろん言わなかったけど。


とにかく僕らはぶん投げあってコミュニケーションをとっている。キャッチボールというよりドッチボールである。取ってもらうよりぶつけるのが先である。たまに突き指ぐらいはすることもある。でもたかが突き指である。そのうち指など太くなるし強くなる。そういう新しい相互理解の仕方を僕は楽しんでいる。けしてマゾヒスティックな喜びなんかではないと僕は思っているのだが。




2014/04/05

雪の国から魚の国へ

食器洗い用のスポンジが魚の形をしている。
「日本人はどこまで魚が好きなんだ!」
彼女は驚く。確かに言われてみればそのとおり。魚の形にする必要などまるでない。そう、我々は魚の国の人たちなのだ。
対してチベット人は魚を食べる習慣はない。肉は大好きだからベジタリアンと言うわけではないのだが、動物の命をとって食べるというとき、気にするのは命の数のようだ。ヤクや羊のような大きな動物は一頭つぶして何人ものおなかを膨らませることができる。それに比べて魚じゃそういうわけにはいかない。シラス丼とかイクラ丼なんてもってのほかである。どれだけの数の命を食べて腹を満たすのか。そう考えるようだ。もっとも魚を食べない理由はそれだけでもなく、水葬も多いチベットでは川に対する不浄感のようなものもあるようだし、単に食べたことがないから気持ち悪いという人も多い。日本に比べて食べるものの種類が圧倒的に少ない人たちだから、食べ物に保守的になるのは想像に難くない。

そんなチベット人である僕の奥さんであるが、彼女はとりあえずなんでも食べてみる。イカの丸ごと一夜干しの姿にびびりながらもとりあえず食べてみる。タコなんか絶対食べないと言っていたけど、目の前にあればとりあえず食べてみる。そのチャレンジ精神たるや恐れ入る。そういやイナゴも食べてたし。そうやっていろいろ食べてみた結果、刺身はかなり気に入ったようだ。ダラムサラにいる友達に生の魚おいしいよなんてことを話しているが、みんな一様に驚いてる。よくそんなもん食べれるなと。食べ物に対する柔軟性。これは初めての場所で暮らすのにもっとも大事なことだろう。彼女はどこでもやっていけそうなのでとりあえず一安心というところか。

日本に来て驚いたことはと訊ねると、一番に出てくるのが若い女のコの服だ。冬なのに生足出して、それでいて上着はモコモコ着込んでいて変だと言う。あの人達は寒くないのか、夏になったらどんな格好するのか、水着だけで歩き回るんじゃないだろうなと彼女は訝る。来たばかりの頃、二人で原宿、表参道辺りを散歩した。僕もほとんど縁のないところなので二人そろってまったくの異邦人である。いちいち通り過ぎる女のコたちの奇抜なファッションに「ほー」と声をあげる僕たち。いやどちらかと言うと彼女は眉をしかめる。ある洋服屋の前でマネキンだと思ってたピンクの髪の娘が急に歩き出して本気で驚く僕たち。ありゃたしかによそから来たらビックリする。
そして日本人の年齢が分からないと言う。若く見えて驚く。僕の祖母の年を聞いて驚く。会ってみてその元気さに驚く。そして結構年取った人たちも元気に働いていてまた驚く。居酒屋のパートのおばちゃんたちに驚く。チベットだったらあれぐらいの人たちはお寺にリンコルいって一日おしゃべりしてるだけだよという。どっちがいいことなのかよくわからないけど、日本はよそより長生きの国であることはたしかなことだ。
もう一つ、日本の生ビールの美味しさに驚いたと言う。インドで星の数程のビールを一緒に飲んだが、その度に日本のビールは美味しいよ、泡がたまらないんだよということをしつこく言ってきた僕にとってはうれしい言葉である。向こうでは泡がなるべく出ないように出ないようにとビールを注ぐのだが、瓶ビールだって美しい泡というのがあるのだよということを分かってもらえたようだ。

東京は桜の季節まっただ中。僕らはつまみと酒を持ってそれらしい場所へと向かう。
日本人にとって桜は春を告げるもっともエキサイティングな花であるということ、あのクレイジーなピンクと一気に散ってしまう儚さがあいまって、日本人は桜の下では正気を保つことは難しいのだということを説明する。お祭り関係には異常に熱心なチベタンスプリットの彼女にとって、桜の木の下の酔客たちを理解することは難しいことでも何でもない。説明するまでもなくすでに彼女の心は臨戦態勢である。
夜桜で乾杯。
酔ってしまえば文化の違いなんてまったくもって小さなこと。彼女がネクタイを頭に巻いてというような典型的な酔っぱらいのオッちゃんみたいになってもまったく驚かないなと思いながら、夜風に舞う桜の花びらをみんなで追っかけてみる。




2014/03/10

「3.10」

3月10日はチベット人にとってとても大切な日である。
55年前のこの日ダライラマ法王を中国から守るためにラサ、ノルブリンカに数万人のチベットが集まった。これが「1959年チベット蜂起」のきっかけである。中国軍はこの群衆に攻撃し、数週間で数万人が命を落とした。そしてダライラマ法王の一行はインドへと亡命した。
ロサが新年を祝う日であるのに対し、この日は政治的な意味合いでチベット人の鼻息が、一年で一番荒くなる日なのだ。もちろん連れの鼻息も荒くなっている。
3月10日は世界中のチベット人、チベットサポーターが街に出て「FREE TIBET!」と声をあげる。日本では3月9日の日曜日にデモが行われた。人の集まり易い日曜日にといった配慮だろう。僕と妻ももちろん出かけた。
日曜日の渋谷にチベットの国旗がはためく。集合場所の公園に集まったのはざっとみて50人くらいか。ちらほら見覚えのある顔もあるがチベット人はやや少なめ。彼女は明らかにそのことに対し不満そうである。チベット人を中心にみなでお祈りを捧げ、国歌を歌う。

そう言えば彼女はインドに亡命するまで、チベットの国旗も国歌も知らなかった。それどころか自分がチベット人であるということを知らなかった。知る機会がなかった。ネパールとの国境に近い町のホテルで働いているときにインドから帰ってきた一人のチベット人男性を助けたことがあるという。彼は山越えの途中で、おそらく国境警備隊に銃撃され足に怪我をしていた。彼をホテルに匿い手当をしていた彼女は、その男性から自分たちのこと、つまりは自分たちはチベット人であるということ、そしてインドに自分たちの大事なラマがいるということを初めて聞いたという。そして彼が隠し持っていたダライラマ法王の写真を受け取った。それがインドに行こうと思った最初のきっかけだ。

そんな彼女が今日はデモの先頭で横断幕を持って、国旗を持って歩こうとしている。何人かの人たちが大丈夫かと彼女に声をかける。先頭にいれば当然写真にも写る。なにがしかのメディアに出るかもしれない。ましてやマスクもサングラスも持ってない。チベットに家族が残る人は表に出るわけにはいかないだろう。そうじゃなくても今後チベットに行くときになにか問題になるかもしれない。でも彼女は言う。
「大丈夫、大丈夫。私にはなんにもない。」
手ぶら無鉄砲娘の面目躍如。
僕は後ろで内心ヒヤヒヤしていたが、まあ言い出したら聞かないので黙って見守ることにする。
そうしてデモはスタートする。

歩きながら、大きな声をあげながら、去年はダラムサラでたくさんの人たちと一緒に歩いていたんだなと思った。この先こういうチベットの行事のたびに一年前のダラムサラを思い出すんだろうな、そう思った。一年前、僕は気のいいノッポのクンガと歩いていた。器用なクンガはみんなの顔にチベット国旗をペイントし、自分は大きな背中に大きな国旗を背負っていた。その横で僕は意味の全く分からないチベット語のコールをなんとか繰り返していた。朝は今にも降り出しそうな空だったが、途中から日差しも強くなり、僕はたくさん汗をかいていた。拡声器に挟まれ、幼い尼さんたちと大きな声をあげていた。
そして今東京。街頭の人たちはぽかんとしている。買い物袋を抱えてぽかんとしている。日曜の渋谷にあらわれたどうしても拭えない異物感。ニューヨークはどうなんだろう。パリはどうなんだろう。もっと違うリアクションがあるのではないだろうか。日本ではあまりにも知られていない話なんだな、そう思わざるをえなかった。もっとも僕もダラムサラに行く前はどうだったと言われると似たようなものだったかもしれない。でも今はずいぶん違うことになっている。遠い話ではなくなってしまっている。思えばそれも妙な巡り合わせなんだけど。
一時間ほどかけて渋谷、表参道と周った。そういえば日本についてすぐに彼女を連れてこの辺を歩いた。今日道路から見た街はどんな風に見えたんだろうか。

デモが終わり、場所を変えて簡単な懇親会のようなものがあった。日本人と在日チベット人がお互いに交流しようという会。日本に来て15年という人がこんな話をしていた。「日本に来たばかりの頃、ちいさな町工場で働いていた。僕はどの人が社長か分からなかった。聞いてみたら横で作業しているおじいちゃんが社長だった。その人の指は機械にやられて全然なかった。社長なのに、おじいちゃんなのにこんなに働いていることが驚きだった。日本は実際は小さな国だけど、こういう人たちが日本を大きな国にしたんだと思った。チベット人はもっと頑張らないと。」
やはり日本で働くということは彼らにとって思ったよりハードなことなんだろう。ここはチベットでもなければネパールでもインドでもない。いいことか悪いことかはわからないが日本はよく働く国なのだ。
日曜日だというのに参加者にチベット人が少ないと、一人の先輩チベット人に妻は不満を漏らしていた。彼はこう言う。「あなたもしばらくここに住んだら分かる。そんな簡単な話じゃないんだよ。」
いろんな意味合いが含まれていそうなその言葉。


彼女のジャパニーズライフは始まったばかりだ。



2014/03/02

あたらしい年

今年3月2日はチベット歴の新年「ロサ」である。
チベット人はこの日の二日前から準備を始める。日本で言えば年越し蕎麦のような意味合いでトゥクパを作り、部屋の掃除をし、仏壇の飾り付けをする。飾り付けも簡単なものではない。いろんな形のカプセ(小麦粉、牛乳、バターなどで作る揚げ菓子のようなもの)を作り並べたて、ダライラマ法王の写真や仏教画の周りを飾り付ける。他にもツァンパやお祝い用のご飯、お菓子、ジュース、果物、カタなどなど用意しなければいけないものはたくさんある。「ロサ マレ、レサ レ」。チベット人は冗談でそう言うらしい。「『ロサ』じゃないよ、ほとんど仕事だよ」という意味。二日前に作るトゥクパの中にはおみくじのような紙を混ぜ込み、食べた人の新しい年を占うらしい。そうやって一生懸命準備をし、新しいきれいな服を用意し、新しい年を迎える。本来ならば新年は15日間お休みして祝い続けるという。15日間ってそんなに悠長に新年を祝ってるのはチベット人ぐらいなものだ。ただ最近はダラムサラでは、チベット本土で続く焼身自殺などの状況を考え、2008年以降自粛ムードにあったようだが、今年はチベット人の伝統を若い世代に引き継ぐために、騒ぎすぎない程度にということで、ロサ解禁のお達しがあったようだ。もっとも僕はいなかったのでいままでのことは知らないし、みんながホントに自粛できていたかどうかはクエスチョンマークである。ちなみに妻は数年前のロサに3人で10キロの肉を食べて3人そろっておなかを壊したと言っていた。

そんなロサを彼女は日本で迎えることになった。ダラムサラやカトマンズの友達から送られてくる大晦日の様子を見るまで、彼女は今日がその日だと言うことを忘れていたりするのだが、いざロサモードに切り替わると急にソワソワし始める、というより興奮し始める。チベット娘の心の中の爆竹はいつでも点火待ちなのだ。どんどん出てくる故郷ラサでの家族とのロサの思い出。ビール片手に、彼女は真夜中ずいぶん遅くまで僕に話してきかせてくれた。

そして3月2日。僕らは在日チベット人たちによるロサのパーティーに行った。
その日の東京は冷たい雨。しかしチベット人にとってこういう日の雨は祝福の雨。神様がお祝いの花を降らせてくれているのだ。ただそれが僕たち凡人には雨にしか見えないだけ、彼らはそう言う。思えばダラムサラでもダライラマ法王のティーチングのある日は決まって雨が降っていたような気がする。それもどしゃ降り。それでティーチングが終わる時間になるとすっかり上がっていたりした。祝福の雨、うん、なんか悪くない。
会場である川崎のお寺の小さなホールに到着する。受付ではきれいなチュパを身にまといしっかりメイクアップした若い子が僕らを案内してくれた。東京に来て一週間、初めてチベット人に会ったということになる。彼女も持ってきたチュパに着替える。会場に入っていく彼女の背中に向かって、負けんじゃねえぞニューカマーよ、つぶやいてみたりして。

亡命チベット人社会から日本にやってきているチベット人は100人程だという。アメリカ5000人、スイス3000人などの数字をみると圧倒的に日本は少ない。もっとも難民として認められていない日本にわざわざ来るメリットはチベット人にとってまったくといっていいほどない。少ないのも当然だ。チベット本土から留学生として中国パスポートで来てる人たちはもっといるようだが、その人たちと、亡命チベット人が出会う機会はほとんどないそうだ。日本にいたって中国大使館の目がどこにあるかはわからない。本土の人が亡命した人と接触するというのはそれぐらい危険なことなのだ。逆に言えばそれだけ中国政府が恐れているという言い方も出来るかもしれない。そう言えば前回日本に帰ってきたときに本土のチベット人映画監督の上映会に行ったが、彼はとてもとても慎重に言葉を選んで自分の映画について語っていた。日本にいると考えもつかない息苦しさが、隣の国には存在している。

いつの間にか彼女はチベット人の女の子たち(?)の輪に加わっていた。聞いてみるとみな日本語も出来るし、それぞれ仕事もしているようだ。彼女がほんの1週間前に日本に来たことを知ると、いろいろアドバイスをくれた。いわく日本語が出来ないうちはなかなか大変だよ、他の国とちょっと違うよ日本は。でも日本語がちょっとでも出来るようになるとけっこう心地よいよ。日本人みんないい人だし、とまで言っていたかどうかは記憶が定かではないが、みんな自分が苦労してきた分、新しい仲間に親身になってくれる。たまにみんなであつまって遊ぶからいっしょにおいでよ、カラオケでも行こうよ。まあカラオケのことを話してたかどうかも分からないけどそんな感じだ。同世代の女子が集まっている感じ。日本に来ても特に食べ物に関しても不自由なさそうだし、僕の家族たちとも楽しくやってけそうだったのであまり心配はしてなかったけど、やはり自分の国の言葉で気安く話し合えるというのは大事なことなのだ。さっそく電話番号の交換をしている。こうやってすこしづつ異国の中に自分の場所を作っていけたら、いつの間にか異国の風景も違って見えるんだろうなと、僕はやや他人事みたいに女子たちを遠巻きに眺めていた。


さてさてロサのパーティーである。始まりにみなでお祈りをしたりはしたが、基本的にはいつものチベット人の宴会スタイル。ご飯を食べ、酒を飲み、あとは歌って踊って、カードやサイコロなど気ままにダラダラと。チベットやインドのヒットソングが大きなスピーカーから流れる。自然にできる人の輪。僕にしきりに一緒に輪に入って踊ろうと彼女は言う。僕は断る。「行ってみんなといっしょに踊ってきなって」僕としては踊ったっていっこうに構わないのだが、踊ったら踊ったで踊りがかっこわるいとか文句を言われるのがオチなので踊らないことにする。「行ってきな、行ってきな」「えーちょっと1人じゃー」「いいからいいから」「いやでもー」そんなこといいながら彼女の体は勝手に動き出している。イッツオートマティック。ポンと背中を一押しするだけで、あっというまに輪の中に溶け込んでいく。あっというまに見えなくなってしまう。